XTC Best Band Ever

XTC is the best band ever. Period.

アンディ・パートリッジの悲しい最新インタビュー:「夢は消えた:XTCのアンディ・パートリッジが心の病、音楽業界との戦い、インスピレーションの喪失について語る」前半の記事全訳

www.theguardian.com

40年前、人気の絶好調だったXTC。しかし、パートリッジが神経衰弱で倒れ、ツアー停止となった。今月新たに過去に採用されなかった曲を集めたEPがリリースされるが、神経衰弱への引き金となった不遇な幼少時代とバリウム依存症、スタジオに安全地帯を見出したこと、そして作曲をやめた理由について語ってもらった。

 

アンディ・パートリッジはもう二度とライブをすることはないだろうと思った。それはロスの救急病院で担架で横たわっていた時だった。両側の担架には銃弾で負傷した患者が横たわっていた。XTCのメンバーはその時には思いもしなかったがこれが最後の公演となった。「夢が死んだ瞬間だった。」40年に渡る思い出に声を詰まらせながらパートリッジは言う。

 

1982年、XTCは今でも最もよく知られた曲「Making Plans for Nigel」で商業的成功を得た。一方、パートリッジは苦しんでいた。母親が精神病院に入院していた一時期、非行に走り始めた12歳のアンディは医師からバリウムを処方された。そのバリウムをやめようとしていたのだ。問題児にバリウムを処方するのは当時の風潮だった。「60年代はそういう時代だった」と言う。「可哀想に。お母さんが気が狂っちゃって、この子は不安で一杯なんだ。バリウムでも飲ませておけば?”と。それで中毒になってしまったわけ」。

 

バリウムを完全に断ち切ろうとしたのは1981年のUSツアー中だった。「その後の1年は脳が溶けてしまったようだった」と言う。記憶障害と身体が動かなくなる発作に苦しんだ。何度もその危険な状態をマネージメントとヴァージンに訴えたが分かってくれなかった。「彼らにとっては僕は大事な収入源だったわけ」。

 

もう二度とライブをすることはないだろうと思った。それはロスの救急病院で担架で横たわっていた時だった。XTCのメンバーはその時には思いもしなかったがこれが最後の公演となった。夢が死んだ瞬間だった。

 

そしてパートリッジはパリでのTV生中継のライブ中にパニック発作を起こした。舞台裏で胎児のようにうずくまっているところを発見される。だが、数日後にはパートリッジはUSツアー開始に向け機上の人となる。バンドはソールドアウトのハリウッド・パラディアムで公演するはずが、結局パートリッジは急遽病院に運ばれてしまう。公演がキャンセルされたことにより、バンドは莫大な借金を抱えることになる。

パートリッジはツアー停止はある意味不幸中の幸いだったと言う。「おかげでレコード作りへの愛が全開した。もうライブで再現可能なレコードを作らなくても良くなったから」。彼はレコーディングスタジオ魔術師としての評判を高め、2006年に解散するまでにXTCはさらに7枚のアルバムをリリースした。しかし現在、彼は曲作りをやめてしまった。年齢とともに「怒りと戦いの心」が失ったのだという。本インタビューの依頼で連絡した際、彼は最初依頼を受けるかどうか躊躇していた。「引退の時代」を迎えたのだと。

 

それはどういう意味?パートリッジはFaceTimeスウィンドンの自宅から丸いメガネで強調された顔つきでこう説明する。「そんな気がするだけ。説明し難いんだけど」。「’老いぼれる’っていうやつだよ」。来年70歳になる彼は心臓病を患っており過去に自殺まで考えた持病の耳鳴りもある。また、幼少期から続く強迫性障害もある。

 

このインタビューのきっかけとなったのは、『My Failed Christmas Career』(『私の失敗したクリスマス・キャリア』)というアーカイブ・シリーズの最新作で、パートリッジが他のアーティストに売り込むつもりで書いたクリスマス・ソングを収録している。モンキーズが採用した2曲以外は、買い手がつかなかった。クリスマスは好き?「おお、最高」と豊かなウェストカントリー訛りで言う。「全部、多神教から生まれたもの」。

 

曲作りをやめてしまった。年齢とともに「怒りと戦いの心」が失った。「引退の時代」を迎えたのだ。

 

20年前の “核爆弾級にブチ切れたクリスマス”について。「子供たち(娘と息子)のためにちょっとしたショーで楽しませようと思って」パートリッジはサンタクロースに扮して子供たちと両親のために料理を振る舞ったが、シャンパンを飲み過ぎて「何年も何年も溜め込んでいた怒り」を母親にぶつけてしまった。そして、シャンパンを片手に夜の街に繰り出した。「遊び場に行き着き、地面が雨で濡れていて、泥の上に横たわって原始的な叫び声をあげた」。地元警察は、泥まみれで涙を流しているサンタを安堵した表情の家族のもとに連れ戻した。

 

1953年、パートリッジはマルタ共和国の海軍の家庭に誕生した。2歳のときにスウィンドンカウンシルハウス低所得者向けの公営団地)に引っ越す。父親は海軍の仕事の関係で長期不在の家庭で、一人っ子のパートリッジは「強迫性障害」の母親と二人きりになってしまった。「母親からは邪魔者扱いされた」と声を詰まらせる。「一言で言えば、僕は必要とされていなかったんだ」。友人の家に遊びに行ったときビートルズのテーマ柄の壁紙に目が釘付けになったことを覚えている。ダッフルコートと短パン姿で『ハード・デイズ・ナイト』を観に行ったんだ」。その後、ギターでビートルズの歌を覚えた。

 

グリーンのアイシャドウ、母親から借りたブラウス、3フィートの虎の尻尾を身にまとったパートリッジは、片田舎の異端児として知られるようになった。彼はベースのコリン・モールディングとドラムのテリー・チェンバースを自分のバンド「スター・パーク」に加入させ、キーボードのバリー・アンドリュースを迎え入れて、1975年にXTCとなった。ちょうどパンクの爆発的な流行に乗り、ヴァージンと契約する絶好のタイミングだった。こ生意気なエクセントリック性は、エルビス・コステロや70年代後半にツアーを共にしたトーキング・ヘッズに近かった。

 

XTCの音楽は都会派ニューウェーブの大物たちと共通するものがあり、アメリカのアーチストたちからも評価されていたにもかかわらず、イギリスのリスナーに俗物扱いされたのは自分達が片田舎の出身だったからだと考えている。「出身地がスウィンドンというダサい町(冗談のネタの町)だったのがイギリスでは全く受け入れられなかった理由の一つだ」と言う。ヴァージンから訛りを直せと言われた。「“それは断る。僕らはウェスト・カントリー出身だ。だからこういう訛りで話すし、こういう考え方をする”と言ってやった」。

 

パートリッジはバンドを「慈悲深い独裁者」としてまとめるのに苦労し、1978年にはバリー・アンドリュースを解雇し、その1年後にバンドのとっておきの切り札的存在、物腰の柔らかいギタリスト兼アレンジャーのデイヴ・グレゴリーを迎え入れた。モールディングは作曲を始め、トップ20にランキングしたXTCのサプライズヒット「Making Plans for Nigel」を書いた。このヒット曲の成功によりバンドのコントロールを失うことを恐れたパートリッジはさらに作曲の腕を磨いた。1980年の『Black Sea』では、2人のソングライターによりますます洗練された複雑なギター・ポップが生み出され、XTCは成熟を遂げていった。驚くべきことに、パートリッジがバリウムを禁断症状と戦っている時期に、バンドは1982年の『The English Settlement』という初の本格的な傑作アルバムをレコーディングしている。商業的絶頂期を振り返り「世界を股にかける飲み仲間バンドにいるのはスリルだった」が、「それはあっという間に色あせた」。

 

ツアー停止後、1983年にリリースされた素晴らしいアルバム『Mummer』は商業的に大失敗。ある日、チェンバースはリハーサルから立ち去り、二度と戻ってこなかった。しかし、XTCのキャリアの救済は思いもよらない形でもたらされた。1985年、XTCは、あるレコーディングの仕事がキャンセルされて余ったスタジオ時間を使い、自分たちが育った60年代サイケデリアへの愛を込めたパロディを低予算で録音したのだ。デュークス・オブ・ストラトスフィアという変名でリリースされたこのパロディ作が当時のXTCのアルバムの売り上げを越え、バンドはヴァージンからの解雇を延期するための時間稼ぎをすることができた。